(1)長嶋茂雄氏の「逆転巨人入り」は、銚子の料亭旅館の仲居さんの一言から始まった
立教大2年生になると長嶋はプロ野球から本格的に注目された。「スカウトが山のように来たぜ」とは長嶋の2年先輩の大沢昌芳(のち啓二)の述懐。大沢は1956年に一足早く南海に入団したが、「予想外の南海入りで喜んでいたら、監督の鶴岡(一人)さんから、長嶋を取るのがおまえの役目、と厳命よ」とこう言っていた。
「実弾(資金)持ってシゲ(長嶋)のお守り。江戸探題よ」
大沢の“基地”は、東京・豊島区東長崎の立大グラウンド近くにあった。のちに大沢夫人となる女性の実家で、東京遠征のたびに長嶋と接触。「シゲに食事代と称して小遣いを渡し、と同時に銀座など繁華街を連れ回したな」。この2人連れの行動から“長嶋は南海”と球界に流れた。
ドラマの幕が開いたのは56年。巨人の宇野庄治球団代表に一本の電話が入った。「犬吠埼(銚子市)で冬季キャンプを張るので来ませんか」と。明大監督の島岡吉郎からで、両者は秋山登、土井淳のバッテリー獲得競争(大洋入り)のときからの付き合いだった。
宇野と島岡が料亭旅館で夕食をとっていると、仲居さんから「巨人の方でしょ。長嶋を取らないんですか」。宇野が「もう南海だよ」と答えると「シゲちゃんは小さいころから巨人ファンなのよ」。この仲居は長嶋の千葉・佐倉の実家の近くに住んでいた。宇野は東京へ戻る途中に長嶋の実家を訪ねた。父親は他界していたが、母親と会いきっかけをつかんだ。翌年の正月に佐倉に行って初めて長嶋と対面。「話を聞いて、南海に決めていない、と直感した」と宇野は後年語った。